卒業論文

今まで学んだことの集大成がこれさ

アキモからの手紙

 以前それなりの期待を抱きながらオモコロ杯に向けて書いた記事はクソみたいなアクセス数のままインターネットに無数に存在する塵の一つになっていた。今見るとちょっと悲しいような、愛着が湧くような不思議な気持ちである。
 
 今回は10年くらい前、俺がまだまだ野心と自信に満ち溢れ、前途ある未来に脇目も振らず突き進んでいた高校生だった頃。その時にある友人からもらった手紙を失くしてしまったという話をしよう。
 俺は彼女と一緒に見た映画の半券だとか、後々見返したらいい気分になれそうな、感傷的になれそうなものを好んで取っておくタイプの女々しい人間なので、失くすなんてことは滅多にないのだけど、この手紙だけはなぜか失くしてしまった。ああ、あの手紙どこいったんだよって3ヶ月にいっぺんは”宝物入れ”の中を全部漁る。当然見つかりはしない。
 何故俺がここまで執着するのかというと、この手紙に書かれたある一文が高校生以来俺の心の隅、といっても枕元から一番近い部屋の隅位には目立つ隅に居座って、たまにある眠れない夜とかにひょっこり姿を現して、時には俺を勇気づけ、時には俺を呪い、そんなことを繰り返している内に俺の心を作る大きな一つの要素になったからである。
 そういう良いにしろ悪いにしろ大きな意味合いを持つ手紙は、それはそれで宝物として大切にとっておいて、たまには撫でてやったりしたい。でも毎度毎度できずじまいなので本当に歯がゆい思いをする。ま、ないものは仕方ないので俺は手紙の内容と当時を反芻することに落ち着くのだ。
 
 高校時代の俺はとても目立ちたがりで、自信にも溢れていたので高校2年生の正月、一人でイギリスに行くことにした。帰国してから驚かせようと、友人達には黙って日本を発った。イギリス観光をすることが目的ではなく、友人達に「すげー」って言わせるのが目的だったので、特別英語とか喋る必要のない大英博物館だとか、リスがたくさんいるだたっ広い公園とかで無目的にぼやぼやして自分の万能感に浸るだけだったけど。
 ただ1つ、俺は旅行に行く前、というか航空券を予約する前からやると決めていたことがあった。それは、特に親しくしていた1人の友人にイギリスから手紙を出すこと。もう絶対驚くし、喜んでくれる。空気の乾いたロンドンのユースホステルの1室で俺はご機嫌に筆を進め、よし中々気の利いた素敵な手紙がかけたぞと、仕上げに赤青白のストライプが入ったいかにも国際郵便ですという封筒に手紙を入れた。それは正に、友人から俺の期待した反応を引き出してくれる事を確信させてくれる出来栄えであった。
 郵便局で事務のお姉さんに「アイ・ウォントゥー・センディット・ジャパン」と頭の中で前もって考えた文句を言いつけ、一仕事終えた俺はその辺を散歩しながら、年明け高校で友人に会う時への期待に胸を膨らませた。
 新年、友人に会った時の反応はもちろん俺の期待通りのものだった。
 
 さて、本題に戻ろう。俺が失くしてしまった手紙というのは、イギリスから送ったこの手紙への友人からの返信だ。どんなことが書かれていたか、俺は一言一句覚えている。
 「手紙、とても面白かったです。正直に言って文才を感じました。僕は今までに何度か面白い文章を書こうとしたけど、書けなかったので羨ましいです」
 俺はこの文章を読んで、舞い上がった。周囲には自信ありげに振舞いつつも、常に自分の何も無さ、才能の無さというか平凡さの影に恐れ震えていた高校生の俺にとって「文才を感じた」という言葉は俺の心を深い底から心地良いものでたっぷり並々と満たし、それこそ心を膨張させ変形させてしまうくらいであった。
 
 当時の俺は数学の才能の方が遥かにあると思っていたので「俺は数学の才能もあれば文章の才能もあるのか」とただただ調子に乗るだけであった。より自信をつけた俺はより心地よく高校時代を送った。友人が俺に贈った言葉は、当時正に祝福であった。
 その祝福がちょっと様子を変えてきたのは大学進学後だ。俺は持ち前の数学の才能とやらでそこそこ良い大学に進学したものの、同期から俺のそれを遥かに上回る圧倒的な才能・実力を見せつけられ、自分のなんてことなさに絶望して授業にはほとんど行かなくなっていた。数学で打ちのめされた後には所属していた部活でそこそこ頑張り、幸い部活内で俺の実力は程々に認めてもらえる程度だったので、なんとか心の平静を保ちながら楽しい大学生活を送ることができた。だが、時たま、日々のあるふとした瞬間に、部活で得られる承認だけではなんとなく不満に感じる時があった。
 そんな時、心に埃をかぶった、それでもしっかりと刻まれているあのフレーズがよぎるのだった。「文才を感じた」「文才を感じた」「文才を感じた」。
 拠り所であった数学が崩れ、逃げた先の部活も満足いくものではない。そんな俺が次にすがったものは文章だった。俺にはきっと、きっと文才がある。これならきっと、もっと多くの人に認めてもらえるはずだ。
 今の所、結局俺は一度も新人賞だとか、そういったものに応募をしたことはない。ただ、大学生になってから発作的に、本当に発作的に文章を書いてはインターネットに半ばやけくそになって投げ込むようになった。その発作というのは、他者からの承認の欠乏によって発生する、まあ流感みたいなものだ。1年おきくらいにはてな匿名ダイアリーだとかに書き込んだ記事があったり、全記事数1のブログ(このブログとかね)とかが複数個あったりする。それはまるで、発作時の吐瀉物のようで悪臭をぷんぷんと放っている。それはそれで、苦しんだ証として大昔に抜けた乳歯のような愛着があるのだけど……。
 
 今でもその手紙を書いてくれた友人とは連絡を取り合っている。関西と関東で距離があるのに、出張でこちらにきた時は連絡をくれるし、俺も年末帰るときは声を掛ける。良い友人だ。もうお互い高校生ではなく大人なので会うときは酒を飲む。お互い仕事の話だの彼女の話だの、ありきたりな話をする。彼と会うたび手紙のことを思い出し、酔いも手伝って「お前からもらった手紙、嬉しかったなあ」とか言いそうになる。だけどそんなことは決して言わない。大人になって色々変わった俺だけど、カッコつけたがりなのは変わらないんだな、と思う。